Hazy Ideas

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ただの私見:Twitterの功罪とテレビの意義

この頃は狭い部屋に引きこもり、書類とYouTubeを交互に見る毎日で、運動不足で太ってきた。こんな時は、久しぶりに意味もなく思うことをつらつらと書き並べようと思う。

 

Twitterについて。

何年も前、十代だった頃にTwitterを始めて1回辞めた。見るのが疲れるからである。友人や有名人の話なら別にいいが、ニュースとか、ネガティブな事象のシェアとかが流れてくるのを見るのはしんどかった。基本的に、人の愚痴とかネガティブな話を聞くのは、元気な時はいいが、そうじゃない時に脳に入ってこられると力を奪われるのだ。

研究者として生きるためにTwitterを再開して、近い分野の専門家とかビジネス分野の著名人のフォローしているが、口調きつめの提言とそれに対するフォロワーとのやり取りが目に入ってくる。別に単発ならいいんだけど、このご時世だから自粛の話とか、ネガティブな議論が多過ぎてしんどい。

他にも同じこと思う人いないのかなあ。ビジネス的やり取りと、プライベートのリラックスエリアが共存しているから、公私を分けられない環境になっている、気がする。みんな気が立って、実社会なら湧き上がっても簡単に飲み込んだり、柔らかい言葉で包み隠せたりする小さな怒りを、声高らかにぶつけまくってる。時に匿名というずるい手段も用いて(あ、このブログも匿名か)。

仕事だから続けるけどさ、フォローするのはハッピーなやつだけにしよ。

 

テレビについて。

海外にいた時に、日本のニュースを細切れでYoutubeで見たり、ネットメディアで見たりしていた。けど帰国して、テレビ見て始めて日本の「空気感」が分かった。分かったと言っていいのか分からんけど。

自分で選択してメディアもトピックも選べるのと違い、テレビは選択の余地なく音と映像が入ってくるし、ニュースのコメンテーターも様々なバックグラウンドからの意見を言う。暗いニュースと明るいニュースをバランスよく構成していて、見ていて疲れない。負の感情を作らせないようにうまく作ってるんだなと実感した。

テレビの視聴者はどうしても世代や職業がバラバラ過ぎて、番組はどれも一般的で偏りが少ない。これが何とも言えない、社会のニュートラルな空気感醸成に役立っていると思わずにはいられない。

ちなみに久しぶりのテレビで流れていた情報で、寝癖の直し方と、靴下が臭くならない洗い方を立て続けに知った。この2つの素晴らしい情報に、自分の生活上の気づきとネット検索だけだったら、20年経っても知ることはなかったんじゃないだろうか。ありがとう、テレビ。

 

隔離中の精神状態

よく入院生活を経験して人生観が変わったなんて目にする(テレビかな)けど、1ヶ月の行動制限と、2週間自主隔離生活は結構衝撃的だった。常に一人で、外に(ほとんど)出られない、自炊できない、人と(ほとんど)喋れない、他にもたくさん不便がある。仕事に集中できるなんて悠長に考えてたけど、太陽光を浴びない、遠くの山を見ない、声を発しない、筋肉を使わないというのはものすごいストレスだ。

普段なら2−3時間連続で仕事できるのに、今は1時間仕事、1時間休憩(Youtubeなど)をだらだらと繰り返している。朝方生活、夕方までに仕事を終えるみたいな生活が理想だけど、無理。

この1ヶ月、野菜クズから湧いた小蝿を観察し、果物に生えたカビを眺めて、「あー生きてる、生物って素晴らしい」と生命への喜びを感じている(私は生物研究者なので、これは普通かもしれない)。

医療従事者、止められない社会サービス分野で働く方々、働きたくても店を開けられない人達と比べたら、自分の苦労なんてゴミみたいなもんで、身近な人が感染したり亡くなったりもないけども、社会的に物理的に押さえ込まれると人のメンタルは弱ってくと言うのを身をもって実感したと言うわけです。老人の単身世帯暮らしとか、どんどん元気なくなって辛いだろうな。ひとりって辛くて、人はリアルもネットも含めて社会を求めるってのがよく分かった。

 

朝、普通の日常だった(ような気がする)夢から覚めて、「あ、今そう言えばパンデミックだったわ、はあ」と思い出す日が結構よくある。感染症の研究してるのに、無力だなあなんて考えてしまう。