Hazy Ideas

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日記:親ガチャという言葉に思うところ(平民出身)

1年位前から思っていたことと、最近の流行り言葉に、関係があると思えたので、文字化してみる。

 

少し前に話題になっていた言葉、親ガチャ。

 

これは、恵まれた家庭の人に会うことで、自分の境遇について客観的に見れるようになって出てきた言葉なんじゃないだろうか。

なんでも他責にして逃げてるように聞こえるのはよくないけども、自分でコントロールできないことに気付くのは重要だと思う。文字通り、スタートラインが違うことを認識しておくことで、自分の人生への期待値を適正にできるからだ。

 

アメリカの大学の卒業式では、first generationの学生は拍手を送られる、という記事を以前読んだ。First generationとは、親族(両親が?)に大卒がいない世帯から進学したという意味だ。

社会に出てからこの言葉を知ったとき、「自分もそうだったんだ」と気づかされた。

学生の時は、同じくらいの学力で、同じように学び、同じように就職活動したけれど、実はスタートラインが違ったんだなと。たしかに、田舎で生まれ育った自分と、都会生まれ育ちの友人では、個人の性格的違い以上に、文化的教養やコミュニケーション能力に差があったと思う。

 

私自身は、田舎の普通の中流家庭で生まれ育った。両親は共働きで、金持ちでも貧乏でもなかった。多くを望まなかったので、不自由を感じたこともなかった。公立の進学校でバイトは禁止だったこともあり、実社会を知らずに、過保護に育った気がする。狭い社会の中で示されたゴール、つまり部活と受験勉強、に向かって真面目に生活していた。それが「いい学生」だと言われて育った。

 

でも都会の進学校ではその間にも、ITや起業についての学習、海外留学など様々な機会が提供されていて、大学生になってから経験の差を実感した。大学では、特に大学院では、無難で普通はおもしろくない、という価値観だった。彼らと比べると、自分には花がなかった。それでも当時は「同じくらいのスコアで受験に通ったんだから、能力は同じはず」と勘違いしていたように思う。

 

思うに、スタートラインの差は、親だけが関連しているのではないと感じる。祖父母や曾祖父母の代までさかのぼって、全体の努力や運の総量が、今の若い世代の立ち位置を決めているのではないだろうか、少なくとも日本では。具体的な職業や企業名を挙げられるほど、社会に精通していないので、これくらいにしておくが。

 

一方で、若いうちに感じる格差のある程度は、30代以降の行動で埋まっていくとも思う。同じ職場・業界で切磋琢磨していたら、経験や能力の差は縮まるからだ。悲観的になりすぎる必要はない。ただ、まずは差があることを認めることが大事、ということである。

 

生まれについて、いろいろ言われることもあるけれど、気にせず生きよう。